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酸素と宇宙と

 投稿者:魔佐  投稿日:2014年 8月20日(水)16時22分17秒
  どうもです。誰か読んでくれたら幸いです。また頭の悪い自分ですけど書かせていただきます。地球にはなぜ酸素があるのか、そして他の星にはなぜ酸素が無いのか、実をいうと自分はわかりません。ただこう思うわけです。酸素がなければ生物は生まれない。他の星には生物の確認はありませんから。という事はそれは決められた事であり必然だと思うのです。だからもし火星に酸素があれば生物が生まれるという事だと思います。でなければ火星に酸素を必要としない生物がいたはずですから。どうもくだらないお話読んでくださった方ありがとうです。  
 

宇宙と星と

 投稿者:魔佐  投稿日:2014年 4月18日(金)20時46分20秒
  自分は特に頭が良いわけではないです。ただ色々な事を考えるのが好きな男です。よく宇宙が無から生まれたとか言いますがこの世に無というモノは存在しないと自分は思います。例えば隙間もなく何も入っていない透明のケースを宇宙に飛ばして何千年も経ってから見たら何かが変わっているでしょうか?言いたい事は宇宙というモノがあるからこそ星がある。何故なら宇宙に酸素がもし在ったら星の存在はない(必要がない)と思うから。宇宙という空間(存在)があるからこそ星があり、共に共存していると思うわけです。余談(まぁ人間が勝手に無というモノを創造しただけですけど)感想くれたらまた違うネタ書きます。  

日本のロケット開発および宇宙進出

 投稿者:虹色トンボ  投稿日:2011年 1月16日(日)05時14分51秒
  日本のロケット開発および宇宙進出

1935年糸川英夫が東京帝国大学工学部航空学科を卒業し、中島飛行機に入社。九七式戦闘機・一式戦闘機隼(はやぶさ)・二式単座戦闘機鍾馗(しょうき)などの開発に関わる。
1941年糸川英夫が東京帝国大学助教授に就任。
1944年第二次世界大戦中B29迎撃のために、大気の薄い高々度での飛行が可能で、上昇力の強い迎撃機として、ロケットエンジン搭載の戦闘機の開発を始める。
当時のレシプロ機は上昇に時間が掛かり、大気が薄い高高度ではプロペラの効果が下がるうえ、酸素不足によりエンジンの燃焼効率が落ちる欠点があった。
短時間に急上昇が可能で、大気中の酸素を使用しないロケットエンジンなら、迎撃のための短時間戦闘であれば十分に効果があると判断された。
ロケットエンジンの開発に成功していた同盟国ドイツから日独技術交換協定によって資料を入手したが、外観図面・ロケット燃料成分表・燃料噴射弁の試験速報など、ごく一部の資料しか入手できなかった。
重要なエンジン内部構造の図面はなく、結局はほぼ独自に陸軍を中心としてエンジンや燃料の開発を行い、これと並行し機体の開発を海軍と三菱重工業が進めた。燃料は独自の安定剤などを加えて改良した。
1944年7月陸軍はロケットエンジンを搭載した大小の無線誘導弾の開発を決定し、機体は大型のイ号一型甲を三菱重工業、小型のイ号一型乙は川崎航空機、液体ロケットエンジンは三菱重工業へ、それぞれ発注。
1944年10月液体ロケットエンジン搭載の無線誘導弾を大小の甲乙ともに試作一号機完成。燃料には過酸化水素と過マンガン酸ソーダを使用。日本における空対地ミサイルの元祖である。
弾頭800kgのイ号一型甲空対地誘導弾はロケットエンジンとして特呂一号三型を搭載し、推力は240kg。誘導弾総重量1400kg、全長5.77m。
弾頭300kgのイ号一型乙空対地誘導弾はロケットエンジンとして特呂一号二型を搭載し、推力は150kg。誘導弾総重量680kg、全長4.09m。
1945年6月から7月空襲により川崎航空機の工場が壊滅的な被害を受け、イ号一型乙をそれまでに150機制作したが生産が打ち切りとなる。あわせてイ号一型甲も打ち切られた。
1945年7月ロケットエンジンKR10型(陸軍での名称は特呂二号)を装備したキ200試作局地戦闘機「秋水」海軍一号機が完成し、試験飛行を実施する。
しかしタンクの設計に不備があり、飛行開始後高度約350mで燃料の供給不良によるエンジン停止で不時着大破。その後も開発は続けられたが終戦には間に合わなかった。
設計上の上昇能力は高度6千mまで2分10秒、1万mまで3分30秒。ちなみに、零戦は6千mまで約7分だった。
燃料には甲液(80%過酸化水素、オキシキノリン、バイロ燐酸ソーダ添加)と乙液(水化ヒドラジン、メタノール混合液、銅シアン化カリ添加)を使用。重量比100:36で反応させた。エンジン推力1500kg。
1944年陸海軍共同開発の秋水とは別に、海軍特攻機として固体ロケットエンジンを搭載した「桜花」を開発。
1945年桜花を実戦に投入するが、犠牲に見合うだけの成果を得ることはできなかった。航空機というよりも、実質的には有人誘導ミサイルである。
1945年敗戦により、GHQから航空分野の研究を禁止される。中島飛行機は富士産業へ社名変更。三菱重工業はGHQの財閥解体により東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業に分割。
1947年東京帝国大学が東京大学に改称。
1948年糸川英夫が東京大学教授に就任。
1950年8月富士産業がGHQにより工場ごとに分割解散させられる。浜松工場および荻窪工場は富士精密工業となる。
1952年日本が主権を回復し、航空分野の研究が解禁される。
1953年糸川英夫が提案する日本のロケットエンジン開発に、富士精密工業が賛同。
1954年2月東京大学生産技術研究所内に糸川英夫などによってAVSA研究班発足。
1954年4月富士精密工業がブリジストン傘下のプリンス自動車工業と合併。存続会社を富士精密工業とする。
1954年9月富士産業が分割した企業が再合併し富士重工業が発足。その後も富士産業から分割していた企業を吸収合併するが、富士精密工業はすでにブリジストンの資本傘下にあったためこの合併に不参加。
1955年2月東京大学生産技術研究所千葉実験場内にSR研究班発足。
1955年3月ペンシルロケットの水平発射実験を開始し、基礎データを採取。初代機は全長230mm重量202g、推力29kg。翌4月まで34機すべて成功。
1955年6月ペンシルロケットの改良型として、全長300mm重量251gのペンシル300、全長460mm重量367gの2段式ペンシル、無尾翼ペンシルなどの水平発射実験を行う。
1955年8月ペンシル300で初めて斜め上方への打ち上げ実験を行う。高度600m。
1955年8月から12月ベビーロケット飛翔実験。高度は約6km。全長124~134cm重量10kg。搭載機器などの海上回収に世界で初めて成功。
1956年9月宇宙科学・技術の進歩・普及・発展に寄与することを目的に、日本ロケット協会を設立。初代代表幹事は糸川英夫が就任。
1956年9月から12月1段式で全長270cmのカッパロケットK-1で高度5km。
1957年4月ダミー2段式で全長4.9mのK-2で高度9km。
1958年5月から6月本格的に2段化したK-3で高度22kmに達する。全長4.9m重量170kg。
1958年世界で初めてロケットの広範囲にプラスチックを採用したパイロケット打ち上げ。格段に向上した質量比は当時の世界最高水準。
1958年9月国際地球観測年(IGY)に参加し、K-6で高度50kmの日本初の高層物理観測に成功。全長5.4m重量255kgペイロード15kg。
1958年10月日本のロケットによるIGY参加実績により、日本ロケット協会が国際宇宙航行連盟(IAF)への加盟を承認される。
IGY期間中に、自国開発の観測ロケット打ち上げ成功国は、アメリカ、ソビエト、イギリス、日本の4カ国のみ。
1959年日本ロケット協会が第1回 ISRA(ロケット及び宇宙航行の国際シンポジウム)を主催。現在2年毎に国内にて開催されるISTS(宇宙技術および科学の国際シンポジウム)の前身となる。
1960年9月K-6Hにて高度68.3kmに達し、大気観測。全長6.9m重量330kgペイロード25kg。
1960年から1969年K-8にて高度140kmから200km。全長10.9m重量1500kgペイロード50kg。
1960年日本初の3段式観測ロケットK-9Lにて347km。全長12.5m重量1550kgペイロード20kg。
1960年10月富士精密工業は「K-6型ロケットのコンポジット推進薬の製造技術権」の譲渡契約をユーゴスラビア政府と締結。12月にK-6型5機の輸出契約。
1961年固体燃料ロケット製造の富士精密工業が、プリンス自動車工業に社名変更。
1962年K-6Yをユーゴスラビアへ実機5台に加え推進薬製造技術や実験機器などまとめて輸出。
1963年ラムダロケットL-2にて高度400km。
1963年4月科学技術省の航空技術研究所(NAL)が航空宇宙研究所(NAL)に改称し、宇宙技術に関する研究を重要研究として、ロケット部を新設。
1963年8月科学技術省が液体ロケットの打ち上げ実験。
1964年終戦後GHQの財閥解体により誕生した東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業が再統合し、再び三菱重工業となる。
1964年4月東京大学駒場キャンパスに東京大学宇宙航空研究所(宇宙研・ISAS)創設。
1964年から翌65年L-3にて高度1000km。
1964年7月文部省・東大宇宙研とは別に、科学技術省・宇宙開発推進本部が発足。
1964年9月インドネシアへK-8型10機、RT-150型4機の輸出契約。
1965年科学技術省・航空宇宙技術研究所にてQとNのロケット計画が立案される。
Q計画は1972年までに150kgの衛星を高度1000kmの軌道に上げ、電離層観測衛星にする。
N計画は1974年までに100kgの衛星を高度36000kmの静止軌道に上げる。
1965年K-8Iをインドネシアへ10台輸出。8月に打ち上げ。このインドネシアへの固体ロケット輸出からアメリカが急速に対日ロケット政策を始める。
1965年9月頃アメリカ政府軍事管理縮小局(ACDA)の宇宙評議会ワーキンググループは、[宇宙開発における対日協力・軍備管理の検討]というレポートまとめ、この中には次の一文があった。
「日本の固体ロケットの能力をもってすれば、今後3年以内に独自で核弾道ミサイルを開発できる」このレポートは機密文書扱いとされ、1996年3月まで非公開であった。
ACDAは、日本に対し液体ロケット技術の供与についても触れている。
「液体ロケット技術の供与は、日本のロケット開発への米国の関与を増大させることにもなる。固体ロケット技術と比較すると液体ロケット技術はミサイルとの関連が少なく、液体ロケットが性能的にも、より魅力的であると説得できる」
これは日本の固体ロケット開発をやめさせたいアメリカが、液体ロケットをエサに日本の宇宙開発を自国の管理下にしようとしたものである。
1965年12月ハンフリー副大統領が来日し、佐藤栄作首相と宇宙開発の協力関係について会談する。
NASAのウェブ長官は、この会談について次のように報告した。
「……日本はアメリカとの協力なしに、独自プログラムを推進する決定をした。日本のこの決定には、宇宙活動の中心人物、特に東京大学の糸川博士が意図的にアメリカとの協力をゆがめた」
1966年東京工業大学の岡本哲史教授らが日本初の液体水素液体酸素燃料のロケットエンジン実験を行う。
1966年8月プリンス自動車工業が日産自動車に吸収合併される。
1966年から1977年にかけてL-3Hにて高度2000km。全長16.5m重量9.5tペイロード100kg。
1967年12月訪米した佐藤首相はジョンソン大統領と会談。そのときの共同声明は次のような内容。
「宇宙の平和的探査利用について会談した。両者は現在までに日米宇宙協力を検討し、将来の協力の可能性を調査した。今後はこの可能性についてより深く検討することで両者は合意した」
1968年4月衆参両院で「宇宙開発委員会設置法」可決。同法には、「宇宙開発は平和目的に限定する」という原則が付帯決議された。
1968年米TRW社から「宇宙航空研究所にTRWが全面的に協力する用意がある」と申し出があるが、宇宙研側はきっぱりと断る。
1968年8月総理府のもとに[宇宙開発委員会]が設置される。
1969年10月宇宙開発推進本部が[宇宙開発事業団(NASDA)]に改組。
1970年2月南極昭和基地からオゾン観測機などを搭載したS-160JA-1打ち上げ成功。高度87km。
1970年2月L-4Sにて日本初の人工衛星「おおすみ」の軌道投入成功。L-4S全長16.5m重量9.4t。おおすみ全長100cm重量24kg。
世界初の無誘導ロケットによる軌道投入成功。ソビエト・アメリカ・フランスに続いて世界で4番目の人工衛星打ち上げ国になる。
1970年宇宙開発委員会は、Q計画を中止し新N計画への移行を決定。新N計画は低軌道へ800kgの衛星を、静止軌道なら130kgの衛星を打ち上げが可能なN-1ロケットの開発。
1971年から翌72年4段式のミューロケットM-4Sにて4機中3機が打ち上げ成功。全長23.6m重量43.6t。低軌道に無誘導で180kgの打ち上げ能力。
1974年から1979年3段式のM-3Cにて4機中3機が打ち上げ成功。全長20.2m重量41.6t。1段少なくなったが、高性能化で低軌道に195kgへ打ち上げ能力向上。
1975年9月アメリカのマクダネル・ダグラス社のソーデルタロケットから技術導入したN-Ⅰロケット1号機の打ち上げに成功。1982年まで7機中6機成功。
ライセンス生産でのメーカー分担は、誘導装置を日本電気、1段目ロケット本体と2段目を三菱重工業、1段目液体エンジンを石川島播磨重工業、1段目補助ブースターと3段目固体ロケットを日産自動車。
これは、固体ロケットの実績を積み重ねることに危険を感じたアメリカが、自国の管理下に日本の軌道ロケットを封じ込めるために、デルタ型液体燃料ロケットの技術提供を申し出たことによる。
しかし、すべての資料を提供されたわけでなく、軌道投入に必要なアポジモーターなどは外観図面のみのブラックボックスであり、ソフトウェアの提供やICBMにつながる再突入技術も規制された。
全長32.57m重量90.4t国産化率53~65%。低軌道800kg静止軌道130kgの打ち上げ能力。
1977年から1978年M-3Hでの打ち上げ3機すべて成功。全長23.8m重量48.7t低軌道に300kgの打ち上げ能力。
1980年から1984年M-3Sでの打ち上げ4機すべて成功。全長23.8m重量48.7t低軌道に300kgの打ち上げ能力。
1981年2月N-Ⅱロケット(N-Ⅰの性能向上型)1号機打ち上げ成功。1987年まで8機すべて成功。全長35.36m重量135.2t国産化率56~61%。低軌道2t静止軌道350kgの打ち上げ能力。
1981年東京大学宇宙航空研究所が他の大学などと研究共有のため、文部省宇宙科学研究所に改組。
1982年6月NASAが日本の科学技術省に対し、宇宙ステーション建設への参加を要請。
1984年H-Ⅱロケットの開発スタート。
1985年1月M-3SⅡ1号機にて、ハレーすい星探査機「さきがけ」を太陽周回軌道へ投入。日本初の人工惑星。M-3SⅡは1995年まで打ち上げ8機中7機成功。全長27.8m重量61t低軌道に770kg。
M-3SⅡはキックステージ追加で惑星間軌道にペイロードを打ち上げ可能な、世界初の全段固体燃料ロケット。
1986年8月H-Ⅰロケット1号機「あじさい」「じんだい」と日本初の相乗り衛星「ふじ」打ち上げ成功。全長40.3m重量139.9t国産化率78~98%。低軌道2.2t静止軌道550kgの打ち上げ能力。
H-Ⅰロケットには2段式と3段式があり、1・6・9号機が2段式で他は3段。1992年まで9機すべて成功。
1987年2月M-3SⅡ3号機にて打ち上げた「ぎんが」が超新星1987Aの観測に成功。ぎんがは当時衛星軌道上にあった世界で唯一のX線天文衛星。
1988年6月米マクダネル・ダグラス社から、開発中のH-Ⅱロケットの2段目購入を非公式に打診される。
1988年9月日米加欧の政府間協定により国際宇宙ステーションの開発に着手。
1988年10月米ジェネラル・ダイナミックス社から、開発中のH-Ⅱロケットの2段目用エンジンLE-5型の単体購入を非公式に打診される。
アメリカ企業各社からの購入依頼に対し、日本は軍事衛星の打ち上げに利用可能なロケットの輸出は、「平和利用に限定する」という原則に抵触すると判断し、輸出は禁止され購入依頼は破談になる。
1989年2月M-3SⅡ4号機にて地球磁気圏観測衛星「あけぼの」の打ち上げ成功。設計寿命の1年を大きく超えて20年以上の稼働実績。太陽活動周期11年の完全観測に成功。
1990年12月秋山豊寛が旧ソ連のソユーズにて日本人初の有人宇宙飛行。宇宙ステーションミールに滞在。
当時秋山はTBSの社員であり、ジャーナリストとしては世界初の宇宙飛行となる。TBSから費用の支払いがあったが、宇宙旅行者ではなく正規の宇宙飛行士訓練を受けている。
1991年8月M-3SⅡ6号機にて太陽観測衛星「ようこう」打ち上げ成功。のちに設計寿命の3年を超えて太陽活動周期11年のほぼ1周期にわたる連続観測に世界で初めて成功に至る。
1992年9月毛利衛がスペースシャトルのクルーとしては日本人初の宇宙飛行。
1994年2月純国産液体ロケットH-Ⅱ1号機にて「みょうじょう」「りゅうせい」の打ち上げ成功。りゅうせいは日本初の大気圏再突入実験機で、太平洋への再突入実験に成功する。
H-Ⅱは2段式ロケットであるが、2段目のLE-5Aエンジンは再着火が可能で、3段式と同等な軌道制御を可能とした。全長49.9m。重量264t。低軌道10t、静止軌道に3.8t。1999年まで7機中5機成功。
1994年7月向井千秋が日本人女性としては初めての宇宙飛行。
1996年1月若田光一が日本人初のミッションスペシャリストとして宇宙飛行。
1996年2月J-1ロケット1号機にて極超音速飛行実験「HYFLEX」を打ち上げ、各種データの取得に成功。
J-1ロケットは3段式固体燃料ロケットで、全長33.1m。重量88.5t。低軌道に約1tの打ち上げ能力。
1997年国際宇宙ステーションへの無人補給機として、HTVの開発を開始。
1997年2月M-Vロケット1号機で電波天文衛星「はるか」打ち上げ成功。はるかは地球上の電波望遠鏡と連携してスペースVLBI観測に成功。
M-Vは全長30.8m重量140t。低軌道に1.85tの打ち上げ能力。2006年まで7機中6機成功。
M-Vは現在運用停止し、大型機器の打ち上げは液体ロケットに移行したが、世界の宇宙開発史上最大の全段固体燃料ロケットである。
1997年土井隆雄が日本人初の宇宙空間での船外活動。
1997年11月H-Ⅱ6号機にて、技術試験衛星「きく7号」の軌道投入。「おりひめ」「ひこぼし」の自立制御のランデブー、ドッキング実験成功。
1998年7月M-V3号機にて火星探査機「のぞみ」打ち上げ成功。火星軌道へ移行するためのぞみが月スイングバイを行い、その際に月の裏側を撮影する。この撮影成功は旧ソ連アメリカに次ぎ世界で3カ国目。
1998年10月向井千秋が日本人としては初めて2回目の宇宙飛行。
1998年11月日本が参加する国際宇宙ステーションISSの各モジュールのうち、アメリカが設計しロシアで製造された基本機能モジュールが各国の実験棟に先立ち打ち上げられ、軌道上でのISS建築を開始する。
1999年2月糸川英夫死去。
2000年1月前年の11月打ち上げ失敗したH-Ⅱ8号機のLE-7ロケットエンジンを、太平洋の水深3000mの深海から回収に成功。故障原因を解明し改良した新型エンジンLE-7Aの信頼性向上につなげる。
2000年7月固体燃料ロケットを製造していた日産自動車がフランスのルノー社との資本提携にともない、宇宙航空部門が分離され石川島播磨重工業傘下に入り、アイ・エイチ・アイ・エアロスペースになる。
2001年アイ・エイチ・アイ・エアロスペースが衛星軌道投入用のアポジエンジンを輸出。
2001年8号機H-ⅡAロケット1号機の打ち上げ成功。H-Ⅱの設計を見直し、部品点数の減少と部分的に輸入品を使用することによる低コスト化と、信頼性向上を実現。
H-ⅡAは全長53~57m。重量289~445t。低軌道15t、静止軌道は6tの打ち上げ能力があり、2段目のLE-5Bエンジンは世界初の再再着火が可能なエンジンである。
2002年3月北海道内の大学や民間企業による「CAMUIロケット」1号機の打ち上げ成功。CAMUIロケットはプラスチックを燃料とし、液体案素を酸化剤に使うハイブリッドロケットである。
2002年12月H-ⅡA4号機で地球観測衛星「みどりⅡ」の打ち上げ成功。みどりⅡは、陸域の土壌水分観測、大気エアロゾル観測、雪氷観測などで世界初の観測実績。
2003年5月M-V5号機にて小惑星探査機「はやぶさ」を小惑星1998SF36へ向かう軌道へ投入成功。
2003年8月小惑星1998SF36が国際天文連合により、日本のロケットの父である糸川英夫の名前にちなみ「イトカワ」と命名。
2003年東京大学大学院小紫研究室が、マイクロ波ロケットの実験に世界で初めて成功。
2003年10月固体ロケットの宇宙科学研究所(ISAS)と液体ロケットの宇宙開発事業団(NASDA)および、航空宇宙技術研究所(NAL)を統合し宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発足する。
2004年5月はやぶさでイオンエンジンと地球スイングバイと組み合わせた加速に、世界で初めて成功。
2005年11月はやぶさから「ミネルバ」放出。イトカワへ着地はできなかったが、世界最小の人工惑星になる。ミネルバはおおよそ直径12cmⅹ高さ10cmの大きさである。
はやぶさがイトカワへのターゲットマーカー投入と、2度の着陸および離陸に成功。小惑星への着陸および離陸は世界初。
イオンエンジンの長時間運用による小惑星軌道到着世界初。地球以外で着陸した状態のままでの離陸も世界初。(アポロやルナの月面からの離陸は、着陸装置を分離し月面に残して離陸)
2005年11月米国の衛星メーカーであるオービタルサイエンス社がインドネシア通信事業用の静止衛星に、アイ・エイチ・アイ・エアロスペースが2002年に輸出したアポジエンジンを搭載し軌道投入成功。
2006年1月H-ⅡA8号機「だいち」打ち上げ成功。翌2月9号機「ひまわり7号」打ち上げ成功。これは日本初の大型ロケット2カ月連続打ち上げである。
2006年5月はやぶさプロジェクトが、アメリカ宇宙協会(NSS:National Space Society)のSpace Pioneer Awardを受賞。
2006年9月M-V7号機にてJAXAが国立天文台とNASAやイギリスPPARCと共同開発した太陽観測衛星「ひので」の打ち上げ成功。これがM-V最後の打ち上げになる。
2006年12月CAMUIロケットなど宇宙関連機器の研究開発や、製造販売などを請け負うカムイスペースワークスが設立。
CAMUI-80Pにて公立はこだて未来大学の実験機器カンサットを搭載し、高度1000mへ打ち上げ成功。
2007年7月石川島播磨重工業がそれまで会社の略称に使用されていたIHIに社名変更。
2007年8月CAMUI-250Sにて高度3500m達成。
2007年8月固体燃料ロケット「イプシロン」の開発研究を決定。M-Vの後続機で打ち上げ能力は劣るが、研究探査用の小型衛星などを特殊軌道に低コスト短期間で打ち上げが可能。
2007年9月H-ⅡA13号機にて月周回軌道へ「かぐや」を投入。世界で初めて月面のハイビジョン映像をリアルタイムに中継。この13号機からロケット本体を製造する三菱重工業へ打ち上げ作業などの関連業務を移管。
2007年12月ひのでの2006年11月に実施したプロミネンス観測結果の解析で、アルベン波を発見。
2008年2月H-ⅡA14号機にて超高速インターネット衛星「きずな」の打ち上げ成功。
2008年ISSへ日本実験棟「きぼう」の船内保管庫を3月に、船内実験室は6月にアメリカのスペースシャトルにて打ち上げ。モジュール内は宇宙空間にあっても日本の主権が及ぶ。
2008年アイ・エイチ・アイ・エアロスペースがIHIエアロスペースに社名変更。
2008年12月三菱電機が、シンガポールと台湾の次期商用通信衛星「ST-2」を受注し、国際商用通信衛星市場に初参入。
2009年1月三菱重工業が韓国航空宇宙研究院(KARI)から多目的衛星KOMPSAT-3(アリラン3号)の打ち上げを受注。
2009年7月IHIがLNGロケットエンジンLE-7の試作機にて、600秒間の連続燃焼に成功。
2009年9月JAXAと三菱重工業がH-ⅡBロケットの1号機にてHTVの軌道投入。自立制御ランデブーによりISSへ接近し、ロボットアームにてドッキング成功。
HTVは無人補給機としては、国際標準実験ラックが搬入可能な世界で唯一の輸送機である。
H-ⅡBの打ち上げにより世界で3番目のクラスターエンジンロケット成功国となる。H-ⅡBは全長56.6m。重量551t。低軌道19t、静止軌道は8tの打ち上げ能力がある。
2009年11月Ⅹ線観測衛星「すざく」の観測データの解析で、世界で初めて銀河の外で大量のレアメタルを発見したと発表。
2010年3月ひのでの観測データをもとに、太陽フレアやそれにともなう宇宙環境の乱れなどをほぼ再現できるモデルの開発に成功。
2010年5月H-ⅡA17号機にて世界初の太陽光推進のソーラーセイル実証機「イカロス」打ち上げに成功。同時に日本初の金星探査機「あかつき」および、相乗りの小型衛星打ち上げ。
2010年6月イカロスはソーラーセイルの帆14m四方(およそ、バドミントンコート2面分)を展開することに成功。
イカロスに搭載されたDCAM2の分離に成功し、展開したイカロスの帆を撮影。DCAM2はミネルバよりも小さな世界最小の人工惑星になる。DCAM2の大きさはおよそ直径5cmⅹ高さ5.5cm。
2010年6月小惑星探査機はやぶさが地球に帰還。本体は大気圏突入で燃え尽き、サンプル回収カプセルがオーストラリア南部ウーメラ砂漠に到着。ほぼ予定通りの場所で、パラシュートの展開および軟着陸に成功。
最も長期間宇宙空間にあった探査機の地球帰還成功。最も長距離を飛行した探査機の地球帰還成功。最も長期間のイオンエンジン運転成功。故障したイオンエンジンの部品組み合わせによる再起動成功。
2010年7月種子島からのロケット打ち上げ期間を年間190日間から通年に見直しについて、種子島周辺漁業対策協議会及びJAXAは関係5県の漁業者と合意に至る。
2010年8月超高速インターネット衛星「きずな」を経由し、移動船舶からの通信で従来の10倍以上の高速通信に成功。
2010年9月JAXAが、イタリア宇宙機関(ASI)、ノルウェー宇宙センター(NSC)、フランス国立宇宙センター(CNES)との間で、それぞれ協力協定を締結。
2010年11月無人補給機HTVの愛称が公募により「こうのとり」に決定する。
2010年11月はやぶさのサンプル回収カプセルから、小惑星イトカワの粒子確認を発表。月よりも遠い場所へ着陸してのサンプル回収世界初。
2010年12月あかつきが金星に接近。金星周回軌道への投入は再接近予定の6年後に延期。
2010年12月イカロスが金星フライバイに成功。

 

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